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奈良のアラカルト=ナラカルトは奈良の観察記録です。

東大寺 法華堂/西の正堂は天平時代。東の礼堂は鎌倉時代。合体して一つ屋根の下にいる。重源、してやったり。

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転害門と並び、法華堂は東大寺最古の建造物といわれています。正確には西の正堂だけが対象ですが、重源によって鎌倉時代に付け足された東の礼堂となんの違和感もなく繋がっています。正堂は柔らかく、礼堂は硬い。にもかかわらず初めから計算された混成のデザインがあったかのようです。

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屋根の真ん中を下から見上げると、天平時代からあった正堂の雨どいが埋め込まれているのがわかります。実用ではありません。雨どいの機能が無ければ意味をなしませんが、なぜかそこに在ることがしっくりきているのです。あまたある東大寺の建造物のなかで最も謎めいたプロポーションです。

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堂内におわす天平の仏像はそれぞれに違う強い光を放っていますが、それでいて一つにまとまって法華堂を特別なものにしています。緊張感をはらんで謎めいています。三月堂とも呼ばれる法華堂、内も外も不可解にして神秘的です。

無謀な取り組みにみえたものが調和しています。異質でも溶け合うことができるのです。

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旧柳生街道/柳生十兵衛に新陰流の手ほどきをうけるため剣豪が行き来しました。宮本武蔵も荒木又右衛門も!

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春日大社の脇から柳生街道ははじまります。すぐさま現代を見失ってしまうような原生の森の中へ。往時にタイムスリップしてしまった感覚に襲われます。剣豪の里を目ざして若き宮本武蔵もここを歩いたかと思うと、ちょっと不思議な気分。いつしか肩で風を切って歩いていました。

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川沿いには大きな岩石が点在しています。仏像の彫られた石を見ていると昔日の往来が信仰に満ちていたことが判ります。おそらく修行と信仰を切り離して考えることはできなかったのでしょう。弥勒如来に朝日が当たっていました。気持ちが急に引きしまったのはひやっとした風ばかりではありませんでした。

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鬱蒼とした山の中の石畳。ハイキングコースとしては初級レベルのようです。ところがその体験は奥深くの山を歩かなければ知り得ないようなものでした。小一時間も歩けば明るいところに出てきます。その先には古びた茶屋が待ち受けています。江戸時代から店があると言われましたが違和感はまったくありませんでした。

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今井町/戦国時代の環濠集落。一向宗の武装都市。江戸の町かくやあらん。

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近世以前の町並みが残っています。江戸時代から続いているような建造物群が幾筋もあります。ちょっとあるという規模ではありません。16世紀と変わらぬ道筋が縦横に貫いているのです。奇跡的な景観。江戸の町のありさまが肌で伝わってきます。

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大和の金は今井に七分と言われたそうです。商業都市としての繁栄ぶりが容易に推察できます。茶の湯もさかんだったようで堺の茶人の今井宗久の名も残されています。古代から大和と堺は同じ文化圏です。幸運でした。今井宗久の取りなしもあって織田信長の破却を免れたということです。

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今井町の栄華は名にし負うものであったことがわかります。豊臣秀吉も立ち寄り一服の茶を楽しんでいます。徳川幕府も自治特権を認めるほど特別扱いしていました。交通の要衝であったことと、強い信仰心による町造りが時の権力者をも引きつけました。

酒も醤油も昔ながらの方法で造られていました。機械仕掛けの現代にはまねのできない味わいです。

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円成寺/武士の情けで仏像は残りました。運慶の初めての仏像がふくよかな顔をして鎮座しています。

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応仁の兵火が円成寺に放たれると知り、とある武士が裏切り行為でありながら極秘に耳打ちしに来たそうです。僧侶らは慌てて仏像を避難させました。火を放つ武士も人の子、仏像まで焼かれてしまうことを嫌ったということでした。地獄におちる恐怖心があったのでしょう。

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運慶が初めて手がけた仏像といわれる大日如来座像があります。当時、仏像はおよそ3ヶ月から半年程度で完成させたそうですが、運慶はこの仏像に11ヶ月も費やしています。東大寺南大門の巨大な仁王像が69日だったことを思えば、若かりし頃の運慶が苦悩しながら完成させたことが判ります。

最晩年の運慶の作品が興福寺の北円堂にあります。そしてここに最初期の仏像があります。感慨ひとしおです。

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柳生街道の半ばあたりにある円成寺。奥深い山中にあるとはいえ、もともと大きな構えの寺院だったようです。しかし明治の廃仏毀釈で寺中にあった末寺のほとんどが無住となり捨てられたそうです。最後に残った僧侶の踏ん張りでいまある境内と建造物が残りました。合掌。

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神武天皇陵/古墳らしからぬ古墳。音もせず、風も吹かず、ただ太陽の光が射していました。

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橿原神宮の北に畝傍山があり、そのまた北に連なるように神武天皇陵は位置しています。こんもりとした木々に囲まれるようにして三者は一体となって存在しています。紀元前660年のこと、記紀が伝える第一代の神武天皇は橿原で即位しました。日本のはじまりを象徴する場所として知られています。

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いちばん奥にある鳥居は初めて見るものでした。おそらく檜と思われますが木皮がついたままです。陵墓によっては石のものもありますが格式の高い所ではふつう白木造りです。そこにどんな意味があるのか知る由もありませんがそれだけで異例であることがわかります。

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宮内庁書陵部なる建物が脇に措かれていました。皇室の図書類の管理もすれば、陵墓の管理にもあたるところだそうです。ここでは御朱印ならぬ、御陵印を押してもらえます。戦前には御陵巡りという旅を楽しんだ人も多かったそうで、その折に参拝記念として収集したようです。

およそ150年前に治定され造られた陵墓。ペリーの黒船が来航し風雲急を告げた時代のことです。

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畝傍山/孤高を持するものの、山というべきか、丘というべきか。神が降臨するいただきへ。

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大和三山の一つである畝傍山は200メートルに満たない山です。決して高いとはいえない存在であるのになぜか低さを感じません。古代人にとって聖地であったせいか、原生の森となり、いまもって神々しい姿を見せてくれます。その昔、霊験あらたかな地にあやかって寺院が林立していたそうです。

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山辺の道の小高いところを歩けば香具山と並んでいる姿を見かけます。その向こうには二上山葛城山がひかえています。この特異な風景は古代びとに特別なものとして映ったはず。自然の働きが神の仕業だと思った時代、畝傍山は神が降臨するための最適な舞台装置となりました。

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裾野から数歩あゆめば鬱蒼とした森の中に入り込みます。シイやカシの木がみっしりと生えています。どこの山奥にワープしてしまったのかと思うほど。鳥も昆虫も活動的で全体がもぞもぞと動いているような感じがします。

晴れた日、頂からは京都の北山までが望めると聞きました。国見をしている気分になりました。

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橿原神宮/あっけらかんと空の青。なんとはなしに飛鳥時代を彷彿とさせる瞬間がありました。

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橿原神宮を前にするとその新しさと飾り気のないさまに驚きます。柱や垂木に染みもなく、すべてに明るい感じです。古きものとなれば苔むしていることが多いものです。ここはそうしたものと無縁。すべてに透明感さえありました。

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真新しい壮大な建造物は神のおわす場にふさわしいと熱狂的に受け入れられたことでしょう。背後には神が降臨する場としての畝傍山がひかえています。ふと明治の人々は、近代化に向かってなお、より強く飛鳥や天平と深くつながっていたかったのではないかと思い至りました。

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歴史の転換期に登場した橿原神宮。混迷に陥ることを押しとどめて明治の精神的支柱となったようです。そうか、古代びともこうして必死だったんだなと思わずにいられません。明治に建造されたものとはいえ、飛鳥の濃淡がそこかしこにありました。

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