nalacarte

奈良のアラカルト=ナラカルトは奈良の観察記録です。

登大路 日吉館を懐かしむ/貧乏学生の泊まれる宿。いちどはすき焼きを馳走に。名だたる文化人の定宿でもありました。

f:id:nalacarte:20170814084811j:plain

会津八一も、和辻哲郎も、小林秀雄も、土門拳も、平山郁夫も、貧乏学生の磯崎新もここを足がかりに奈良を巡っていました。雑魚寝しかできない部屋があるのみ。それでも寄り集まっていました。寝坊しては怒られもしましたが女将さんの悪口を言う者は一人としていませんでした。

f:id:nalacarte:20170814084847j:plain

f:id:nalacarte:20170814085032j:plain

f:id:nalacarte:20170814085105j:plain

f:id:nalacarte:20170814085146j:plain

f:id:nalacarte:20170814085219j:plain

文化とはなにかと考えさせられます。立派なものとは無縁の日吉館でしたが見事な存在でした。文化人にかぎらず、志賀直哉を訪ねた学生たちの定宿でもありました。前に広がる博物館の庭や裏手の東大寺を散歩しては思いを巡らし、この国のなんたるかを模索したことでしょう。

f:id:nalacarte:20170814085346j:plain

f:id:nalacarte:20170814085417j:plain

f:id:nalacarte:20170814085447j:plain

女将さんの切り盛りは愛情そのものでした。訪れる者にわけへだて無く接してくれました。1995年に80年の歴史をとじましたが多くのものを残しました。日吉館の周辺はすっかり変わってしまいましたが、その記憶はこの地に克明に刻まれていつまでも語り継がれていくことでしょう。

f:id:nalacarte:20170814085517j:plain

f:id:nalacarte:20170814085546j:plain

f:id:nalacarte:20170814085613j:plain

春日大社 奥の院道/本殿の南東のどんづまりに紀伊神社(奥の院)。鬱蒼とした森を縫って小道が続きます。

f:id:nalacarte:20170729174202j:plain

三条通の東の端にある一の鳥居をくぐれば、高木の枝が頭上をおおい、夏の日照りをさえぎってくれます。木々を渡ってくる風は涼やかで、夏の散歩にはこの上なく贅沢なコースになります。朝が早いほどさわやかですが、昼日中でもさして苦にならない道のりです。

f:id:nalacarte:20170729174245j:plain

f:id:nalacarte:20170729174410j:plain

f:id:nalacarte:20170729174444j:plain

f:id:nalacarte:20170729174547j:plain

f:id:nalacarte:20170729174643j:plain

本殿から奥の院へは、のんびりした歩調でも10分程度です。原生の森の中を歩いて行くことになります。東大寺とは若草山をはさんで隣同士ですが、まったくの別世界が広がります。東大寺は山の縁にある寺院。春日大社は山の中にある神社です。

f:id:nalacarte:20170729174736j:plain

f:id:nalacarte:20170729174821j:plain

f:id:nalacarte:20170729174855j:plain

木洩れ陽は生き物のように揺れ、苔むした山を背景にして踊っているかのようです。沢を流れる水の音がひときわ響いてきます。日陰の美しい季節になりました。

f:id:nalacarte:20170729174934j:plain

f:id:nalacarte:20170729175006j:plain

f:id:nalacarte:20170729175036j:plain

東大寺 鐘楼/建造物は鎌倉期、釣り鐘は奈良時代。口径270センチ、重さ37トン。実験的で、ユニーク。

f:id:nalacarte:20170729172346j:plain

重源亡き後、栄西大勧進として工夫に工夫を重ねて再建したようです。京都の建仁寺を創建した直後のことです。それまでにない様式であり、その後にも引き継がれることのなかった様式です。禅寺の建築様式のパイオニアとなった栄西ですが、おそらくこの鐘楼でそれまでになしえなかった様々なことを試してみたのでしょう。結果、ユニークな存在となりました。

f:id:nalacarte:20170729172421j:plain

f:id:nalacarte:20170729172531j:plain

f:id:nalacarte:20170729172605j:plain

いつの頃からか奈良太郎という愛称で呼ばれるようになりました。勢いの鐘として評判をとりましたが、鎌倉時代の力持ちの武将が撞いたところ三日三晩鳴り止まなかったので、それから撞く位置を下にずらして響きを小さくしているということです。

f:id:nalacarte:20170729172652j:plain

f:id:nalacarte:20170729172721j:plain

f:id:nalacarte:20170729172759j:plain

f:id:nalacarte:20170729172834j:plain

臨済宗の開祖にして、建仁寺を開山した栄西。なにをもって実験的な試みをしようとしたのか謎のままですが、奈良太郎は唯一無二の存在となりました。

f:id:nalacarte:20170729172908j:plain

f:id:nalacarte:20170729172935j:plain

f:id:nalacarte:20170729173007j:plain

山辺の道 内山永久寺/1000年の歴史を誇った大寺院。明治に露と消えました。

f:id:nalacarte:20170729171047j:plain

東大寺興福寺そして法隆寺に次ぐ格の高さを誇っていました。いくつもの堂宇がならび、子院も多くあったといわれています。特別の格を持った大寺院でした。しかし明治の廃仏毀釈のときに廃寺となり、浄土式庭園にあった池だけが残りました。なんとも悲しい結末でしたが、当事者たちのなかには密かにほくそ笑んだ者もいたようです。

f:id:nalacarte:20170729171140j:plain

f:id:nalacarte:20170729171220j:plain

f:id:nalacarte:20170729171309j:plain

幕末のころは運営基盤が脆弱だったようです。悲しみに暮れた僧侶がいないはずはありませんが、なかには渡りに舟とさっさと寺宝を売り飛ばした住職も少なからずいたようです。大金を手に入れると還俗して不自由のない生活を始めたとか。ちょっと微妙な話です。

f:id:nalacarte:20170729171348j:plain

f:id:nalacarte:20170729171420j:plain

石上神宮に国宝の出雲建雄神社の拝殿があります。もとはといえば内山永久寺のもの。仏像や仏画にとどまらず、あらゆる美術品が散逸してしまいましたが、数奇な運命を経てこの拝殿だけが残りました。そもそも内山永久寺は貴族趣味の濃厚な寺院でした。その雰囲気が拝殿に色濃く残っています。

f:id:nalacarte:20170729171455j:plain

f:id:nalacarte:20170729171527j:plain

f:id:nalacarte:20170729171556j:plain

f:id:nalacarte:20170729171626j:plain

春日大社/桂昌殿 綱吉の生母、桂昌院。春日大社ばかりか法隆寺も唐招提寺も復興し奈良を蘇生させました。

f:id:nalacarte:20170709101907j:plain

巷間伝えるところによれば、桂昌院は京都の八百屋の娘であったといわれています。あれよという間に大奥にまで上り詰め、ついには5代将軍綱吉を懐妊。ここまではとんとん拍子でしたが、大奥にはライバルも多く、陰湿ないじめにあっていたとか。その時の桂昌院を助けたのが亮賢という僧侶だったと言います。

f:id:nalacarte:20170709102005j:plain

f:id:nalacarte:20170709102047j:plain

f:id:nalacarte:20170709102120j:plain

我が子綱吉がめでたく将軍職に就いたことを歓び、桂昌院は亮賢に深い感謝の念を表しました。仏教に深く寄りそうようになり、生類憐れみの令を綱吉に勧めています。公慶が東大寺大仏殿の勧進に来た時にも大いに貢献する働きを見せています。亮賢が長谷寺密教を修学した縁もあり、奈良の寺院の復興に手をさしのべるようにもなりました。

f:id:nalacarte:20170709102152j:plain

f:id:nalacarte:20170709102220j:plain

f:id:nalacarte:20170709102249j:plain

悪女と言われることもある桂昌院ですが、どうあろうとも現在の奈良のおもだった寺院を蘇らせたのは事実のようです。春日大社に天下太平を祈願する建造物がありますがこれも桂昌院の寄進によるものです。桂昌殿と呼ばれています。

f:id:nalacarte:20170709102322j:plain

f:id:nalacarte:20170709102351j:plain

あちこちの古い寺院に徳川の葵巴の紋を見受けますがそれらは桂昌院の痕跡かもしれません。

f:id:nalacarte:20170709101937j:plain

山辺の道/纏向(まきむく)はヤマト政権発祥の地。どこを見わたしても古代が色濃く縁取られています。

f:id:nalacarte:20170709100752j:plain

纏向は弥生時代から古墳時代にかけての都市だったとか。農耕具がほとんど出土せずに、土木工事の工具ばかりが出てくるそうです。この国に自生しないベニハナの花粉が確認され染色用であったと推測されています。となれば渡来人の高度な技術がここにあったということになります。

f:id:nalacarte:20170709100823j:plain

f:id:nalacarte:20170709100854j:plain

f:id:nalacarte:20170709100931j:plain

f:id:nalacarte:20170709101002j:plain

正面を見下ろせば大和川が中央に流れる西の景色が飛び込んできます。大陸からの渡来の品々が上ってくるルートです。最新技術を伴った文明と直結しているようです。また眼下に広がる景観は頂点に立つ者にふさわしい大きさを見せています。

f:id:nalacarte:20170709101038j:plain

f:id:nalacarte:20170709101111j:plain

山辺の道は最も古い道の一つです。曲がりくねった細い道だけに、歩くほどにどこか遠い過去に迷い込んでいくような気分にもなります。

f:id:nalacarte:20170709101143j:plain

f:id:nalacarte:20170709101215j:plain

f:id:nalacarte:20170709101248j:plain

法隆寺/夢殿 斑鳩宮に住んだ聖徳太子。ここは難波と飛鳥のまんなか。軍事と交通の要衝でした。

f:id:nalacarte:20170709095722j:plain

聖徳太子仏教に熱心であったことは誰しもが認めるところです。蘇我馬子とともに政治の混乱を収拾していきましたが、理念のなかに仏教の教えが取り込まれていました。四天王寺をはじめとする数々の寺院を建立したのもその現れでしょう。そのとき、この国の命運が決まったのかもしれません。

f:id:nalacarte:20170709095754j:plain

f:id:nalacarte:20170709095824j:plain

f:id:nalacarte:20170709095853j:plain

f:id:nalacarte:20170709095934j:plain

聖徳太子の死後、斑鳩宮は荒廃したようです。見るに見かねた僧の行信が跡地に伽藍を創建しました。およそ100年後のことです。夢殿の誕生です。なにはともあれ仏教があったればこその造営でした。廻廊から眺めていると、ここに生活を営んでいた厩戸皇子が不意に現れてくるようです。

f:id:nalacarte:20170709100008j:plain

f:id:nalacarte:20170709100038j:plain

f:id:nalacarte:20170709100105j:plain

f:id:nalacarte:20170709100139j:plain

1300年前の空気にそのまま取り囲まれているような気分になります。信貴山が変わらぬ姿で見守っていました。

f:id:nalacarte:20170709100212j:plain

f:id:nalacarte:20170709100242j:plain

Copyright(c)2016 Nalacarte.All Rights Reserved.