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奈良のアラカルト=ナラカルトは奈良の観察記録です。

暗峠(くらがりとうげ)/最後の旅となった芭蕉の足跡を追って

南北に細長くのびる生駒山の真ん中あたりの低いところが暗峠。奈良と大阪を結ぶ山越えの近道が走っています。

大阪へ向かう道すがら伸びやかな棚田が広がります。ところどころ風雨に洗われて少しのっぺりしてしまった地蔵が迎えてくれます。元禄時代からなにも変わっていないと思われるいかにも古めかしい情景が谷間にありました。

 

重陽の季節、奈良で宿泊した芭蕉は大阪へ向かいました。弟子の諍いの調停のためでした。菊の節句ともいわれ、芭蕉はしみじみと花に感じ入っていたといいます。奈良町では「菊の香や奈良には古き仏たち」と詠み、暗峠では「菊の香やくらがり登る節句かな」と遺しています。

足の運びが遅くなったとき芭蕉は後ろをいくども振り返り、小さくなっていく奈良の町並みとその向こうの故郷伊賀を眺めたことでしょう。

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峠を越えると切り立ったような坂が続きます。転がるように下っていくと、ほどなくして木立の間に大阪の街並みが現れます。そこが終焉の地となりました。

辞世を「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」と詠みました。

 

このとき芭蕉の胸のうちには暗峠からの眺めが去来したかもしれません。

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岩船寺/隅鬼棲む山寺 木もれ日と蕾と鳥のさえずりと

中世、南都(奈良)は乱れがちだったといいます。

秩序の崩れた都市を嫌って山に籠もる僧が出てくるのは自然なこと。

清浄な修行の場を必要としていたのです。

岩船寺の起点もそこから。

どうりで町のなかにある寺院とは風姿が違っています。

山の精霊が守っているかのよう。

 

隅鬼(すみおに)は格別です。

怒りと笑いをにじませたような顔つきで隅木を支えているのです。

隅鬼は唐の時代に流行ったとか。

唐招提寺の金堂や法隆寺五重塔にもありますが珍しい存在です。

煩悩を表す象徴としての邪鬼。

日本古来の天邪鬼ともかさなり魔除けの役割を担わされるようになりました。

 

鬼瓦と同じ鬼形というわけですが、

その目つき、ただ事ではない。

人間の煩悩を見透かしているようです。

くわばら、くわばら!

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<この地は行政区域でいえば京都ですが、地勢的にも、文化的にも奈良といって差し支えないでしょう。東大寺春日山のつい目と鼻の先に浄瑠璃寺岩船寺はあります>

浄瑠璃寺〜岩船寺/石仏 人々の願いそのまま石仏

仏像といえば仏師が作るものと考えがちです。

運慶や快慶の残した仏像は文字通りこの国の宝です。

しかしそれらばかりが仏像ではありません。

円空は僧侶としてじつに多くの仏像を彫りました。

大工や農民の彫った地蔵も山中にひっそりと立っています。

考えてみれば上手い下手は関係ない。

すべては信仰のためなのです。

 

浄瑠璃寺の山門を出ると緩やかな山道にそって石仏が散在しています。

岩船寺までの道のりを飽きさせないほど。

しかも春日山の原生林に散見できる仏像と違って、どのお顔も穏やか。

厳しさよりも、優しさがふわっと伝わってきます。

 

全体が斜めに傾いていたり、顔立ちがゆがんでいたり。

とはいえ、ちっともおかしくなんかありません。

それどころかぐいぐいと引きつけられていきます。

ものを作る原点というとなにやら大層な話になってしまいますが、

それでもそんなことをつい考えさせられてしまいます。

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<この地は行政区域でいえば京都ですが、地勢的にも、文化的にも奈良といって差し支えないでしょう。東大寺春日山のつい目と鼻の先に浄瑠璃寺岩船寺はあります>

浄瑠璃寺/陽春 春の花咲きほこりたる浄土かな

1000年前の平安時代末法に入った時代。

釈尊の教えもゆらぎ、争いごとが絶えなくなると広く喧伝されました。

そんなときに浄瑠璃寺は創建。

僧侶の戒律を厳しく修めて不遜な時代に対峙しました。

 

浄瑠璃とは澄みきった世界のことだそうです。

浄瑠璃寺は浄土庭園を造ることで彼岸を具現してみせました。

四方を山に囲まれ、聞こえるのは春のそよと吹く風の音ばかり。

山桜やコブシなどに混じって名も知らぬ花々があたり一面に咲きほこり、

山の鳥のさえずりが涼やかに聴こえてきます。

 

九体の阿弥陀如来がまつられた本堂で吉祥天が微笑んでいます。

なぜかダビンチのモナリザを思い出しました。

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<この地は行政区域でいえば京都ですが、地勢的にも、文化的にも奈良といって差し支えないでしょう。東大寺春日山のつい目と鼻の先に浄瑠璃寺岩船寺はあります>

11 東大寺 二月堂 お水取り/満行

終わりを全うして練行衆は結束をとかれます。

それぞれの顔にやり遂げた者だけが見せる逞しい境地を浮かべています。

鋭い目つきのなかに優しさがにじんでいます。

 

練行衆のからだから立ち上る気は天を衝くかのよう。

 

自坊に去りゆく練行衆は足を一つ運ぶごとにふだんの僧侶に戻っていきます。

その後ろ姿には晴れやかさと気高さがはりついていました。

東大寺がたとえ灰燼に帰しても、とこしえに信仰は残ると思わせる瞬間です。

 

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(2016年の写真含む)

10 東大寺 二月堂 お水取り/しりつけ松明

お水取りの最後を飾る「しりつけ松明」。

前の童子の尻に火がつくほどの近い距離で上がることからそう呼ばれています。

一列に並ぶさまは大団円を迎えるにふさわしい。

荘厳さもさることながら華やかさがなんともいえず

胸の内をほわっと明るくしてくれます。

1260年前の信徒たちもこれを見ていたのかと思うとこころ熱くもなります。

宗教儀式のまんなかに大きな炎。

もうもうと舞い上がる煙は邪念が燃え尽きた跡形。

見入るだけで我らの煩悩も薄らいでいきます。

 

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9 東大寺 二月堂 お水取り/達陀(だったん)

達陀(だったん)とは聞き慣れないことば。

それもそのはずサンスクリット語で焼き尽くされる意とか。

またしても火の行法。

堂内に侵入しようとする鬼を松明によって退治する。

お水取りを始めとするきわめて崇高な儀式と違い、どこか愉快。

見る者の緊張をじわりと解きほぐしてくれます。

鈴や錫杖の音に混じり法螺貝と太鼓の音も響く。

火は踊り、水が飛び散る。

演劇の原形を見せられたような気持ちになります。

 

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二月堂周辺は夜も更けてすっかり帳に包まれているというのに、堂内は打って変わって異常な熱気に包まれます。さしかけという名の下駄のような履物のカタカタカタカタという音がしつように繰り返され、闇を引きちぎらんばかりのかん高い響きをもって辺りの緊張を徐々に高めていきます。格子を通して見えるそれは紗の幕に映し出される練行衆のシルエット。漆黒のなかにいくつも揺れる炎はますます幻想的で、はっきりと見えないがゆえに想像をますますたくましくすることに。

ひとしきりの騒ぎの後、修験道のすがたをした男たちが数人堂内に現れます。紗を器用にくるむと、練行衆の姿と祭壇の輪郭が少しばかりはっきりとしてきます。暗さに目が慣れるころ、紗の取り払われた所にぽっかりとした空間が生み出されていることに気づきます。そこへとつぜん練行衆の一人が登場すると天井に向けて大きな桶いっぱいの水を放りあげます。虚を衝く感じです。恐怖を感ずるほどの音が内陣の奥まで達します。その興奮がさめやらぬうちに、別の練行衆がお松明のときと同じ大量の火の粉を天井へ向けてばらまきます。練行衆の一挙手一投足にぐいと引きつけられます。なにごとが起こるのかと釘付けになります。

堂内の興奮が最高潮に達してくると、鬼がとつぜん乱入してきます。鐘が激しくつかれ異変が起きたことを知らせています。練行衆は不意の悪者を追い出すために、鈴を鳴らし、錫杖を床にたたきつけ、法螺貝を吹き鳴らし、太鼓を間断なく激しく打ち鳴らします。度肝を抜かれた一瞬です。

その時です。内陣にあっては大きすぎるほどのお松明が鬼によって持ち込まれ、いくども大仰に振り回されます。なにもかもが焼き尽くされていくようです。落ちる火の粉はよもや火事になりはしないかと心配になるほどですが、手慣れた修験者たちによって迅速に片づけられていきます。そしてお松明は床に激しくたたきつけられ、すさまじい音とともに爆弾がさく裂したような大粒の火の粉を散乱させます。ひとしきり暴れたあと鬼は消えていきます。息をのむ瞬間ですが、これがまさしく激しく燃え上がる大団円というわけです。

 

シリアスな場面を想像されるかもしれませんが、すべての動きは滑稽ですみずみに渡って愉快な踊り仕立ての芝居になっています。場面転換には声明が響き、1000年前のミュージカルを鑑賞しているような気分になります。

十一面悔過ではお水取りを始めとする厳格な行事がいくつもありますが、この達陀もあわせての宗教行事です。狭い内陣で燃えさかるお松明の煙は目にしみます。しかし胸のうちにじわっと感じるものが広がってとても立ち去る気になりません。

 

さいごに練行衆は一列になって、小さな下り松明に導かれて下堂します。ちょうず、ちょうずと言いながら。ちょうず(手水)というのはトイレのこと。ちょっとトイレに行ってくるだけだからと鬼に聞こえるように言うのです。それは真っ赤な嘘。練行衆はそのまま参籠して寝てしまいます。しかしそれとは知らずに鬼は「なんだ、また戻ってくるのか」と勘違いをしてしまいます。ふたたび堂内に松明をもって乱入することは叶いません。

 

気高いのにおどけてもいる。さいごのさいごまで!

 

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